アビシュカール

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ネパール語で「発見」

武田水軍

海のない甲斐の武田に水軍があったこと、知らなかった。
私の生活圏に関りの深い地名がいっぱい出てきて、急におもしろくなった!

焼津小早型八丁櫓漁船から引用させてもらうと
戦国時代、武田信玄は全国統一の第一段階として府中を攻略、久能山に本陣を置くも、今川・北条氏の水陸連合の大軍には勝てず甲斐に敗走した。このとき、信玄は敗戦の原因は水軍が無いことと悟り背後に山を控えた入り江の自然の要塞に守られた焼津の花沢城を拠点として、必ず北条水軍との戦いがあると予見し、戦闘能力の優秀な軍船建造に焼津の船匠や漁師に協力を求め、動揺の少ない速力の早い機転が利く小早型軍船を建造することができ、駿河一円の海賊衆から遠く伊勢湾の海賊衆まで集め、安宅1隻、船37隻、小舟15隻の全国でも誇りうる武田水軍が組織された。
 武田信玄は勇猛で知られた騎馬軍団と強力な水軍を持ち、京都を目指し再び西進を開始、浜松在の三方原で徳川軍を撃破するも、天正元年(1573)信玄は 病に倒れ、甲斐に帰る途中死去する。信玄の嫡子勝頼は長篠の戦いで徳川・織田の連合軍に敗れたが、健在だった花沢城の武田水軍は天正八年(1580)数倍もの北条水軍と浮島が原(田子の浦)沖の海戦で撃破し、父信玄の宿願を成就した。しかし、勢いに乗った徳川軍は藤枝の田中城、焼津の花沢城を落とし駿府を占領、甲斐を攻略、天正十年 (1582)勝頼は天目山で自刃し、武田軍の滅亡となった。破れた武田水軍の将兵は徳川方に降伏し、家来となり、あるいは野に下った将兵は焼津の浜辺に定住し、機敏に旋回する鰹の群れの追尾に適した小早型八丁櫓船を、漁師とともに建造し、駿河湾内を駆けめぐり大漁を続けていたという。
八丁櫓漁船は駿府城跡に、お祭りで登場しているらしい。

日本は海に囲まれているのだから、当然歴史が深いだろうけど
村上水軍等、水軍の歴史は面白いなあと思っていたくらいだった。
でも、「こんな身近にあったのね」になると、もっと知りたくなる。

北条氏のインチキ(ネットゲリラ)にもいろいろと・・・
「水軍基地」としての内浦長浜城とか
「北条氏と武田氏の間で駿河湾を舞台にした大規模な海戦」
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by roman-tan | 2007-10-08 11:38 | 映画とか・・